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松阪城

松阪城案内図

先週松阪城に行ってきました。

最近1枚ずつ写真をアップしてきましたが城だけは自分の撮影テーマなのできっちりとした記事にしていきます。

三重県にお住いの方には申し訳ないんですが実は松阪に大きな城跡があることを私はしらなかったんですよね。

松坂城跡 石垣が凄い

城跡そのものがあることは知っていたんですが行ってみてびっくりしました。

まさかここまで大きな城跡とは・・・

そもそも松阪に石垣のある城が残っていることを知ったのは梶井基次郎の「城のある町にて」の舞台になって事を知ったからなんですが、それでも想像するに本丸一帯の天守台周辺だと思っていました。

松阪城内の石碑

これほどの石垣群が残っているとは想像していませんでしたので撮影中のテンションはかなり高かったです。

実はこの日は大阪では雨が降っていたのですが天気予報を信じて雨の中、大阪から出動した所、途中名張で雪が降っていたので心配しましたが松阪に近づくに連れて雲間から脱出し驚くほどの快晴になりました。

この松阪城についていろいろ調べた所築城主は蒲生氏郷だったんですね。

まさか伊賀と近江日野以外に伊勢にまで領地を持っていたとは思っていませんでしたのでこれに関しては驚きでした。

松阪城二の丸から雲の具合もいい感じでした。奥に見える天守閣は歯医者が作ったものだそうです。大阪の小阪城みたいですねw

そもそも蒲生氏郷って割と何したかわからない人物なんですよね。

そのうえ結構持ち上げられてるので自分的には過大評価な気がして仕方なかったんですよね。

今回松阪城に行く上で蒲生氏郷について調べるいい機会になりました。

取り敢えず蒲生氏郷の評価は信長と秀吉に評価されたから、これがポイントなようですね。

実際信長は氏郷に自分の娘を与えるほどの期待っぷりで信長と信忠が本能寺で討ち死にしなければ信忠政権で外戚として重きをなしたことは想像に難くなさそうです。

あと秀吉から伊達政宗への抑えとして会津90万石の大名とされたことも大きそうです。

蒲生氏郷が伊勢12万石から僅か2年足らずで転封となった時に秀吉が「松ヶ島侍従を上方に置いておくことはならぬ」と言ったという事が名将言行録という書物に載っているそうです。

松ヶ島侍従とは松坂の蒲生侍従氏郷のことです。

侍従とは朝廷の官職のことで松ヶ島は松坂に移転前の氏郷の伊勢の拠点です。

と言うかこの言葉本当に秀吉が言ったならドラマティックな展開なんでしょうがこの名将言行録自体が1854年に完成した書物で氏郷が生きていた1580年代から300年後の本なのでどうやってそんな言葉聞き取ったんだよって言いたいんですがなのでソースが名将言行録ならだいたい嘘だと思っていいです。

そもそも秀吉が東北とは言え90万石の大領を恐れている人物に与えるとか気が狂ってるとしか思えません。

それなら上方で恩を売って飼い殺しにした方が遥かにマシです。

堅牢な石垣群、見よこのつづら折れの石垣この石垣に櫓や門があったと想像すると恐ろしい・・・

じゃあ大体90万石がどのくらいの動員力があったかと考えると1万石おおよそ250人だそうでその内輜重などの裏方を考えて100人ほど間引いても150×90と言う事になります。

13500人の軍隊を所有する大名となります。

大体軍記物はモリモリに盛ってますから実数に近いのではないでしょうか?

太平記とかそこらじゅうから集まった雑兵が尊氏に味方して100万人になったとか平気でありますからw

当時の日本の人口が1000万人程度ですからそこらじゅうから集まった雑兵が100万人って日本の人口の10%じゃんってなるので実像は軍記物が提示した数字の10%~50%が正確だと思った方が良いです。

ちなみに今回の記事の松坂は江戸時代の人口は1万人程度だそうです。

その内兵員として取れるのは人口の10%程度として考えたら1000人程度、氏郷の会津移封前の所領は松ヶ島12万石

本居宣長の邸宅跡

150人×12=1800人松坂以外の伊賀とかの所領からかき集めて1800人なら実像に近いでしょう。

氏郷が松阪で天下取りのために旗を上げても余程のことがない限り恐れることはないとなります。

一方会津13500人の大将に格上げですからね。

どう考えても栄転以外の何ものでもないでしょう。

仮に秀吉が氏郷を恐れていたなら会津13500人で伊達政宗と結託して反乱を起こされたらそれこそ30000近い軍隊が怒涛の如く東北を席巻するという事を想像できないほど馬鹿ではないはずですので。

秀吉と距離が離れるからできる裏工作もありますからね。

実際の史実では蒲生氏郷と伊達政宗は互いに嫌い合って政宗が毒を入れた茶を飲ませるくらい揉めてたくらいですから氏郷がいかに秀吉に忠実だったかがわかります。

入り組んだ階段、ここを攻め入ったら四方八方から矢衾となるでしょう。

と言うことで名将言行録は噓ということになります。

話が脱線してまるで名将言行録の嘘を暴く記事みたいになりましたが、あえて脱線の言い訳めいた補足しておくとさっきのことで分かったのは松ヶ島12万石~会津90万石がどれくらい栄転だったか分かるという事です。

月見櫓はお殿様の月見のために作られた櫓とも言われている。

なにせ1800人の動員力から13500人の動員力ですからね。

相当秀吉に伊達政宗の抑えとして期待されていたことがわかります。

実際氏郷は温暖で生まれ故郷の日野に近い松阪から離れるのを嫌がったそうですが・・・

ところでこの松阪城ですがちょっと12万石の城としては過分な城と思えませんか?

あの赤穂浪士の赤穂城も石高に比例して過分な城を築城したことで財政が逼迫したそうですがそこは氏郷も考えて近江日野から近江商人を移住させて楽市を形成させて経済の活性化を率先して行ったそうです。

流石に会津までには移住させられなかったようで松阪は氏郷のおかげで江戸時代にかけて商人の町になるのです。

ちなみ松阪はあの三井財閥の発祥の地だそうです。

私もつい最近まで知らなかったのですが松阪市が発信している動画で知りましたw

しかし三井とは・・・今まで近江商人と言う言葉を何度か耳にしてきましたが氏郷が移住させた近江商人が松阪商人となり三井財閥に繋がると考えると近江商人が物凄い商売上手だということがようやく腑に落ちました。

今まで身近に近江商人というものを感じれませんでしたがそれは江戸時代を通じて雲散霧消したわけではなく三井財閥という形で生き残っていたわけですね。

今は三井グループですからそこかしこで近江商人の息吹が生きているわけです。

ところで最近知ったのですが大阪の鴻池財閥はあの山中鹿介の子孫だそうです。

鴻池財閥の系図は怪しく鹿之助の娘の八重の直系が子孫と認められ鴻池の方は明治の裁判で破れたそうですが

金の間櫓は連結式天守の一角をなしていました。

個人的には鴻池家の方も本当なんじゃないかなあと思ってしまう所もあります。

鴻池家は代々金貸しの一族で明治になって銀行業を営んできた財閥です。

山中鹿介の子孫を名乗るメリットは金貸しにはないかと思われますので本当なのではないかなあと思った次第です。

天守台

まあそれは良いとしてこの松阪城は見ての通りの規模なので完成したのは氏郷が会津に去った後だったそうです。

ちなみにこれだけの規模の城ですから江戸時代に松阪藩があるようなイメージがありますが松阪には藩屏が無かったそうです。

松阪は紀州藩の藩領だったそうでその為商人の町、町人の町にになる下地があったのです。

奥が天守台で手前が敵見櫓、櫓同士が斜めに連結してるのですが非常に珍しい形、更に長い廊下を通じて金の間櫓に繋がる
何の山か分かりませんが鈴鹿山脈かな?

ですので松阪の町は江戸時代を通じて大名や武士が有名人にはおらず武士や大名の有名人は戦国時代や室町時代まで遡らなければなりません。

ですので僅か2年間の支配者でも人気のある戦国時代の蒲生氏郷を推して行かないと行かないのかなとも思います。

北畠氏が少しも登場しないのが気になりますが・・・

私からすると伊勢といえば北畠親房とか北畠顕能とか北畠満雅とか色々といるんですがね。

とは言え北畠氏の支配地は松阪からは少し西側の霧山や多気、松阪も支配していましたが実際は阿坂や松ヶ島だったので松阪にダイレクトに当てはまるかと言えばそうではないので結果として氏郷を持ち出すんでしょう。

ですがこのような特異な歴史を持つ松阪の歴史に今回行ってみてすごく興味がわきました。

特に本居宣長や三井財閥や町人が活躍する松阪の歴史は物凄く興味深いものです。

実際松阪は氏郷推しみたいなように書きましたがそれは人気のある戦国時代に氏郷しかいないからであって真の松阪の推しは本居宣長のようです。

城の横には神社があったり城内には邸宅を移築したりとその力の入れようは氏郷を遥かに凌ぎます。

この本居宣長も元は松阪商人の息子で江戸に店子を持つ大店だったそうですが宣長自身に商売の才がないと悟り店を潰してしまう前に自分で店を畳んで勉学に励んだ人で城内に資料館があったので足を運びましたがその学問の量は常人には計り知れない量でした。

本居宣長の邸宅、松阪城に移築されている。

この本居宣長は江戸時代の三大国学者の一人として名を馳せるのですが本居宣長はまさに松阪の町人文化のまさに代表的人物なのです。

本居宣長は勉強とは才能ではなく継続だと言ったそうですが自分は継続できてないことにはっと気付かされました。

いつもは城の近くの歴史資料館で歴史の雰囲気を味わうんですが今回の旅は別の意味でも勉強させられました。

もうちょっと継続して頑張らないと駄目ですね。

掛け軸は本居宣長の自画像
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tetsugorou • 2018年1月19日


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