tetugorous Photograph

大和郡山城

大和郡山城の追手櫓

GM5を持って大和郡山城へ

この日は日が強かったため露出が難しかったですが郡山城は板張りの漆喰塀はモノクロとマッチしていて良かった気がします。

郡山城はすでに天守が無い城ですが立派な天守台が存在しているので見どころがあります。

気になる天守閣ですが奈良県が天守台の修築作業を行っていた際に発掘作業も行った所天守台礎石が発見されたため天守の存在が確実視されたそうです。

中には豊臣期の黄金瓦も発見されており豊臣政権の近畿支配の重要拠点であることがハッキリと分かる遺構が発見されたようです。

仮に天守があったとして天守台の大きさからすると5層6階か4層5階ほどの巨大な天守だったことがわかります。

この巨大であったであろう天守は関が原の戦いの後に破却されたそうで徳川家康はこの頃からすでに豊臣政権から政権を奪取することを企んでいたのかもしれません。

近鉄奈良線が堀に沿うように走っている。
櫓門跡 光が強かったのでわざと陰影を強くして撮ったのが気に入っている
追手門と向櫓

時は大阪夏の陣の頃、豊臣のカラーを嫌った徳川家康が豊臣色の強い大和郡山城に大和都の地縁が深い筒井氏を大名に復帰させたのは近畿地方の豊臣支配の体制に打った楔の一つだと考えられます。

このため大阪夏の陣では執拗に豊臣から同心するように求められた当主の定慶は本来は筒井家の当主になれない立場にあったにも関わらず徳川家康に取り立てられた恩を感じて頑なに豊臣方への同心を拒否するのです。

定慶はその後大阪夏の陣で戦死してしまい結局筒井家は断絶してしまいます。

その後大和郡山城へは有名な水野勝成入封し荒れた城地を修復したがしばらくして福山藩に移封していった。

かなり立派な天守台は石垣の石が不足したため近隣の墓石や地蔵なども使っての大規模な作事だった。

その後は松平氏から本多氏と藩主を次々と変えていった郡山城だったが柳沢吉里が藩主として入封しそのまま維新を迎え廃藩置県となり、郡山城も廃城となりました。

この郡山城の大きな見どころはまず復元された向櫓と追手門、それから追手多聞櫓、そしてメインスポットはやはり大きな天守台でしょう。

この郡山城は豊臣秀吉は筒井氏を追い出してまでも近畿支配の重要拠点として認識しており、その為大和支配は秀吉が最も信任していた弟の豊臣秀長が入封します。

それほどの重要拠点だったため秀長は元々筒井氏が支配していた郡山城に豊臣家の威信をかけて巨大な天守を築いたに違いありません。

この大きな天守台を作る際に石が足りなかったため多くの転用石を用いる作事だったということで天守台には多くの転用石が見て取れるそうです。

その中で最も有名なのが逆さ地蔵です。

この地蔵は天守台の近くに大きく看板されてるのですぐにわかりますがその他にも墓石なども多く用いられたそうです。

その為その天守はいかにも素晴らしいものだったろうと想像することが可能です。

恐らく金箔で装飾された瓦などを配した豊臣期の素晴らしい天守だったに違いありません。

築城の際に石垣を建築するための石が足りなかったため転用石として墓石や地蔵も駆り出された。

しかし豊臣秀長はこの壮麗だったであろう大和郡山城をわずか6年程度しか支配できませんでした。

若くして亡くなってしまったのです。

近くによって撮るととてつもなく大きい
本丸に入るり目の前に天守台、右手には柳沢神社がある。
よって撮ると大きさが分かる

そして天守も関ヶ原の戦いの後破却されてしまいましたが天守台は残りました。

今現在は天守台の前には最後の藩主家を祀っている柳沢神社があります。

柳沢氏の藩祖である柳沢吉保は名君として名高く学問の神様として親しまれているようです。

また大和郡山城は梅や桜の名所としても有名なので近隣に住んでいる方で行ったことのない方は一度足を運んでみることをオススメします。

現在は天守台も整備され展望台も設備されているので一見の価値があるかと思います。

天守台からの1枚 奈良盆地が見晴らせる。
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tetsugorou • 2017年11月8日


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